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■ 今井絵里菜 氏は、1996年生れ、神戸大学経済学部卒、専門は環境経済学です。気候変動政策に若者の声を反映させるための活動を21歳の頃からずっと続けておられます。国際的な気候活動家であり、その活動経歴からはスウェーデンの気候活動家グレタ・トゥーンベリさんを連想します。「日本の科学者」2024年2月号には「政策決定プロセスへの関与を求め続けた活動の歩み―気候変動政策に若者の声が反映されるには」という論文を執筆なさっています。2017年より「神戸石炭訴訟」に関わり、現在は大阪府吹田市で市民共同発電所づくりにも関わっております。今回は「神戸石炭訴訟」への取り組みについてご寄稿いただきました。
2025.5.14 受理
未来を生きる若者が法廷に立つ理由
- 神戸石炭訴訟の判決を受けて ー
神戸の石炭火力発電を考える会 今井 絵里菜

神戸石炭火力発電所の建設を巡って起こされた訴訟は、気候変動問題を真正面から日本の司法の場で問うた、国内初の裁判でした。私は2018年の行政訴訟提訴時より原告の一人として運動に関わるようになり、発電所周辺で長年にわたり公害問題に取り組んできた住民の方々、環境問題に取り組む弁護団、そして支援者と共に歩んできました。(行政訴訟は2023年3月上告棄却)
2025年4月24日の民事訴訟・控訴審判決を受けて、裁判での争点を実社会の文脈に引き寄せて整理し、温室効果ガス・大気汚染物質排出の主体やその責任のあり方について考察したいと思います。
この裁判では、発電所を建てて温室効果ガス・大気汚染物質を大量に出す企業(被告)と、その影響で健康や暮らしに不安を感じている住民(原告側)が争いました。こうした構図に対して、私たちはみな電気を使い、車や飛行機に乗り、モノを買って消費しながら、気候変動の一因になっていることから、実社会において、単純に「加害者」と「被害者」とに分けることが難しいと考える人もいるでしょう。
とはいえ、今回問題となった発電所が稼働を続ければ、毎年およそ200万世帯分のCO 2 が追加で排出されるとされます。これは、私たち個人が生活の中で排出する量と比べれば、圧倒的に大きな数値です。世界全体のCO 2 排出量と比べると「たった5000分の1」に見えるかもしれません。しかし、5000分の1が世界のあちこちで積み重なることで、気候システムは確実に壊れつつあります。
たしかに、石炭火力発電所の建設によって電力の供給力が増し、私たちの生活に一定の恩恵があったのも事実です。しかしその一方で、石炭火力は他の発電手段と比べても温室効果ガスの排出量が圧倒的に多く、気候変動の深刻化に直結するという大きな代償を伴います。そして何よりも重要なのは、電力供給の方法として石炭火力しか選択肢がなかったわけではないという点です。それでもなお石炭火力が選ばれたという事実は、誰の利益が優先され、誰に負担が押しつけられたのかという問いを浮かび上がらせます。
裁判所は、「気候変動が人権と関わること」は一定程度認めました。たとえば「1.5℃目標の達成が人権の保護に不可欠である」という判断を示し、CO 2 濃度の上昇を抑え、カーボンニュートラルを実現する必要がある、としました。
しかし一方で、私たち原告が主張した「健康で幸福に生きる権利」については、裁判所は「生命や身体のように直接的に守られるべきものではなく、抽象的すぎて法的には認めがたい」としました。たとえば「クーラーがなければ夏に寝られない」「集中豪雨で通学路が毎年崩れるようになった」といった生活の変化は、多くの人にとって深刻な問題であるにもかかわらず、法的には“間接的な影響”とされてしまったのです。
また、CO 2 はアスベストや工場排水のように目に見える害があるわけではない、という理由で、「それ自体が有害とはいえない」と判断されました。CO 2 はあらゆる生命活動や経済活動などに伴い出てくるものであるため、今回の発電所だけに違法性を問うのは難しいという考えです。
加えて、私たちは「カーボンバジェット」という考え方――つまり、1.5℃目標を守るには世界全体で排出できるCO 2 の“残り枠”があること、そしてその枠を超えて排出し続ける行為は違法である――を訴えましたが、裁判所は「国ごとの割当や企業ごとの基準がはっきり決まっていない」という理由で、それを採用しませんでした。
こうした司法判断は、ある意味で「今のルールでは取り締まれない」ことを意味しています。しかし、気候変動そのものはすでに現実であり、世界のあちこちで被害が進んでいます。例えばバングラデシュや太平洋の島国では、海面上昇によって生活の場が奪われ、多くの人が国内外へ移動せざるを得なくなっています。これが「気候難民」と呼ばれる人々です。ドイツでも中東やアフリカからの移民の中には、気候変動によって農業が立ち行かなくなったことを背景に移動を選んだ人たちがいます。
こうした“静かな災害”は、SNSを通じて遠く離れた人々にも伝わるようになりました。ガザでのジェノサイドの様子が、リアルタイムで目に飛び込んでくるように、気候危機ももはや無視できる問題ではありません。そして日本国内でも、夏の記録的な高温、毎年のように起きる線状降水帯による豪雨や土砂災害など、気候の変化は身近な脅威になっています。 このような現実を前にして、若い世代として訴訟に関わる意味とは何か。その過程で見えてきたものは何か。そして、私たちの声が社会に与えうる力とは何かを考察したいと思います。
1.若者が原告になる意味──法的意義の視点から
神戸の石炭訴訟においては、裁判所は、気候変動によって私たちが「いつ、どこで、どのような災害に遭うのか」は不確実であり、その危険はまだ具体的ではないとして、裁判によって発電所の運転を止めることはできないと判断しました。また、災害への不安も、将来起こるかどうかわからない抽象的なものにすぎず、法的には守る対象にならないとされました。
けれども、気候変動による影響はすでに各地で現れており、これから長く生きることになる若者ほど、気候変動の被害に長期間さらされることになります。気候変動の影響が今後ますます深刻になるとされる中、未来の時間をより長く生きる若者こそが、まさにその被害を具体的に訴える立場にあります。
名古屋地方裁判所で係争中の「若者気候訴訟」では、日本各地に住む10代・20代の若者たちが原告となり、すでに生活の中で感じている気候変動の影響を自らの言葉で語っています。猛暑による部活動や学校行事の中止、年々深刻化する災害報道への不安。こうした声が語られることで、「将来の被害」ではなく「すでに始まっている被害」であることが、よりリアルに伝わっていくと考えられます。
2. 若者の声が社会に与える
「将来世代が存在しない」と仮定すると、人は現在の環境を守ろうとする意欲を失いやすくなる、という研究結果もあります(Future Designでの社会実験より)。裏を返せば、若い世代が気候変動に声を上げ、関わり続けることには、社会全体がこの問題を「自分たちの課題」として捉え直すきっかけをつくる力があります。私たちの存在が、気候変動に対する責任感や行動の必要性を呼び起こすと考えるようになりました。
とはいえ、長い時間軸で進む気候変動の問題は、特に若い人ほど実感しづらいものでもあります。子どもや孫の存在によって将来への意識が高まるというのもまた事実であり、将来のリスクを自分ごととして捉えるには一定の時間が必要かもしれません。
3.「訴訟」という社会への参加
私がこの運動に関わり始めたのは、「国際社会は脱石炭に向かっているのに、なぜ日本はいまさら石炭火力を?」という疑問からでした。裁判の傍聴だけではなく、情報公開請求、株主総会での質問などの活動から、発電所建設の背後にある制度や構造、そして司法が気候危機に対して直ちに明確な判断を下せない現実を、少しずつ知っていきました。 判決のたびに無力さを感じてきましたが、訴訟という枠を超えて、市民には社会のあり方に異議を唱える多様な法的手段が用意されていることを知り、私にとって確かな社会参加の実感となりました。一つひとつの意見陳述や証拠提出が、ただの手続きではなく、次のより良い結果に繋げる積み重ねであったと、今では確信しています。
